掃除しなくても死なない

一人暮らし歴も10年前後になるが、掃除をしなくても死なないということがわかっている。掃除機があった時代もあるが、断捨離してしまった。現在の主な掃除用具はクイックルワイパーである。掃除しないんだけど。

『汚くて嫌だ』の基準が壊れている

普通の人は汚いところに嫌悪感を覚える。私も家の外でなら覚える。しかし家の中になると、なぜかどれだけ汚れていても目に入らなくなる。認識の外にあるので、そもそも汚いとも思わないのである。脳みその端っこでは理性としての『掃除しないとな』が残っていたりするけれど(多分)、表に出てこないのでいくら部屋が汚れていてもほとんど気にならない。

外ではちゃんとする

上にも書いたが、家の外では『汚い=嫌だ』のセンサーが働くので、職場などの清掃はわりとちゃんとしていた。社会に馴染めるように脳をフル回転させていたから、そういう普通みたいなことができたのかもしれない。掃除の作業自体は嫌いではなかった、と思われる。黙々とやれるしね。

健康被害はありそう

しかしながらやはり家の中も清潔に保てるならそれに越したことはないだろう。ハウスダストとかやばそうだなあとたまに考える。子どもの頃にアレルギーやアトピーがあったので母は狂ったように家を掃除していた、と記憶しているのだが、どうして私はこうなったのか。ウケる。

風呂に入らなくても死なない

風呂がめんどくさくて嫌い

私は風呂に入れない人間である。シャワーすらできないという意味の『入れない』だ。一般的な日本人は毎日入るだろう。
実家にいた頃は毎日風呂に入れと言われていた気がする。多人数の集団生活では強制的に入る時間を決められ、そのことに憤っていた。一人暮らしを始めてからは好きな時間に風呂に入れることに幸福を覚えたはずだったのだが。元々強制的に風呂に入らされていたものが崩れるのに時間はかからなかったようだ。
それでも外出する前にはシャワーは浴びている。働いていた頃はギリギリで入っていた。が、仕事を辞めた後は転がり落ちるように入らなくなった。外に出ないからである。用事がないと入らない。入れないと言うべきか?

ガス代が安い

風呂に入らない(入れない)メリットとしてガス代が安くなることが挙げられる。まあ光熱費を把握できる能力もないので具体的にどれぐらいかはわからない。お湯だけがガスの家なので、風呂と皿洗いにしか使わない。もう何年もガス代がいくらなのかわからないのも、なんというか終わってる?

シャンプー等が減らない

また別のメリットとしてシャンプーなどのお風呂用品が減らないので、ガス代共々お金に優しい。最近のお風呂周期は週に一回なので月に4回しか入ってない。まあ前にいつシャンプーを買ったかなんて覚えてないどころの騒ぎではない。普通なら月30回が4回だと思うとなかなかだなあと思う。なんなら1日に2回シャワーする人種もいるらしいし、考えられないな。

まとめ

風呂に数週間入らなくても死なないのは確かだけれど、入れる人は入った方が良いと思うよ。風呂入れる人すごい。冬の時期は特に寒いし。風呂周期が週一だとシャンプーを2回はしないと泡立たないよ、風呂嫌い民からの豆知識だよ。

自己紹介が嫌いだ

人間関係は自己紹介から始まる。子供の頃からそう決まっていた。何はともあれ自己紹介。当たり前ではある。僕が、私が、君が、あなたが、どんな人間で何が好きで、どんな共通点があってどんな違いがあるのか。人々はそこから会話を広げ交遊を深めるものだ。理解はしている。人はよくわからないものに不安になる。だから何かにつけて相手の情報を収集するようだ。しかし理解しているからといって、私が自己紹介を好きになれるわけではない。

 

なぜ自己紹介が嫌いなのか。紹介するような自己がない、わけではないのだろうが、とっさに思いつかない。自己開示への強い拒否感がある。自己開示についてはなぜ拒否感が出るのかよくわからない。自分を知られることは怖い、のか?虚無なプライドだろうか。無駄な足掻きなのか。無自覚に高いプライドはまだ残っていたのか。とにかく自分を知られたくないのだ。取り繕った外面はボロが出る。そうして自分から人間関係を切りにかかる、ということがあった、かもしれない、過去のことをあまり覚えていないが。

 

人間として人間と関係を作るならば自己紹介から始めなければならないとは私の思い込みだろうか?もっとフランクに知らない人と交流する場もあるのではないか?ありそうではある、が自分に出来るとも思えない。特に人間と関わりたいとも思わない。朝の5時に考える内容でもない気がする。